青森連隊駐屯地を1902年1月23日に出発した青森第5連隊210名からは199人が死亡者が出て、映画にまでなった八甲田雪中行軍遭難事件。
他方、弘前ルートから入山した弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名の計38名は、見事に踏破を果たしていました。互いに激しい風雪に悩まされたものの、1月20日から2月1日までかけてほぼ全行程で案内人を立てたからとの話がありますが、そこまで差異がでるものなのか、労働衛生保護具の違いはなかったものか、実際を確認するために八甲田山雪中行軍遭難資料館を訪ねました。
日本陸軍は日清戦争でも冬季において寒冷地で苦戦を強いられていました。更なる厳寒地での戦いが想定される対ロシア戦に向け、日本陸軍は準備を重ねる必要がありました。陸奥湾と津軽海峡がロシア軍により封鎖・占拠され、そして青森と軍港のある八戸間や、青森と弘前間とを結ぶ沿岸の鉄道が艦砲射撃被害などで破壊された場合には、当時、物資の運搬の代替手段は人力ソリに頼る他ありませんでした。そしてその往来には、八甲田連峰の合間を縫っての物資輸送が積雪量の多い中(今でも冬季、積雪報道にて「酸ヶ湯 3メートル」というように)検討する必要がありました。
そこで青森から太平洋側の八戸まで、八甲田連峰の中にある 田代温泉を抜けて行軍する企画が練られた次第でした。
さて、現代でいうところの労働災害なのか、確認をしました。
やはりありました。寒気に対する喚起が十分されたとはいえない装備品でした。つまり労働衛生保護具の選定に支障があることが判明しました。
試着できるようになっていました。薄手の外套が該当します。展示物の中には生存者の中にはゴム靴をはいたり、予備の靴下を手袋に重ねて装用していたものは凍傷を負わず生存していたとの説明が展示されていました。
資料館の案内人の説明によると、199人の尊い命は無駄に失われたわけではなく、より極限の地で繰り広げられた対ロシア戦における保温性ある保護具開発と支給に繋がり、日露戦争に日本は勝利する結果へと結びついたとのことでした。
左は東郷平八郎の、右は齋藤実の揮毫です。
物資輸送にそりを引いていたことに、先進国からは驚きだったようで、その後1910年に交換将校として来日されていたオーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ少佐によるスキーの指導が高田第58連隊(新潟県)や旭川第7師団(北海道)で行われることに繋がっています。
それにしても訪れたのは2023年8月14日と台風7号が来ているころでして風雨により河川が波打つ濁流となっていて、山岳路通行には怖さを感じました。
かつ それら川や滝が冬には凍てつく寒さだということから、更には以下の言葉が表わす恐ろしさも追体験できました。
「~白い地獄が待っていた!」
保護具選択については、コロナ禍下、産業医による健康経営㊴|労働安全衛生3管理に基づく有害因子の流れからみたコロナ対策大全や産業医による新型コロナウイルス感染症対策⑩|労働衛生工学に基づくマスクの選択にて、労働衛生工学に基づく適切な、科学的根拠ある選択が肝要であることを紹介してきました。生命を衛ると書いての衛生。生死を分かつものは、労働衛生工学に基づいた根拠の有無だと強く認識し直せました。